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  • 2023年12月29日
  • 読了時間: 4分





瑞々しい野菜がいっぱい!夏に収穫できる野菜たち。


                                今江 美和⼦




日本の夏は年々気温が上昇し、都市部に限っては世界有数の暑さを誇るようになりました。夏バテや熱中症で体調を崩す人も多くなっています。そんなときは、ぜひ夏野菜を食べて栄養分と水分を補給したいものです。初夏から秋口にかけて収穫できる夏野菜は豊富で、家庭菜園で育てるのもおすすめです。

夏の収穫野菜にはどのような種類があるのか、調べてみました。



暑い夏を乗り切るために!夏野菜の特徴


夏は汗をかきやすく、体内に熱を溜めやすい季節です。

夏野菜は火照った体を冷まして水分とビタミン、ミネラルを補給してくれる、夏に必須の天然サプリメントです。夏が収穫時期の野菜で圧倒的に多いのは果菜類で、生食でも加熱調理でも、おいしく食べることができます。夏野菜のほとんどは春まきタイプで、夏の畑は季節の風物詩として連想される野菜でいっぱいになります。

種まき時期が早い野菜であれば、3月中旬頃からまき始め、4月下旬から5月中旬頃までは種まきのピーク時期になります。夏野菜は秋冬の根菜などに比べて、

長期保存に向かない野菜が多いので、ぜひ家庭菜園で育てたいものです。


夏野菜こそ、収穫したばかりの新鮮な状態で食べるのに向いています。家族で収穫しながらガブリとその場でかぶりつけるのも、夏野菜を育てる醍醐味と言えるでしょう。


夏に収穫できる野菜1. 夏野菜の代表格は果菜類


夏野菜は圧倒的に果菜類が多く、日常の定番野菜としてもよく知られています。

3月中旬から、ミニトマト、トマト、キュウリなどの種まきがはじまり、4月にはナス、カボチャ、ゴーヤ、5月になるとズッキーニやオクラ、トウモロコシなどを植えることができます。早ければ6月下旬から、だいたいは7月から、ミニトマト、トマト、ズッキーニなどなど、たくさんの野菜が収穫シーズンを迎えます。


夏野菜は同じ料理の具材として入れるのに相性が良く、トマトやズッキーニ、ナスの組み合わせなら、ラタトゥイユや夏野菜カレー、パスタソースなどたくさんの料理を作ることができます。もちろん、単品で食べてもおいしいのが果菜類のメリットです。スイカや焼きとうもろこしは、昔から夏休みの定番おやつです。

キュウリやトマトはマヨネーズやミソなど、トッピングするソースを変えることでいく通りもの味わいを楽しめます。彩り豊かでさまざまなアレンジができるのが、夏の果菜類の特徴です。


夏に収穫できる野菜2. 料理の薬味や香辛料


夏は薬味や香辛料として使用できる野菜が収穫できます。日本で昔から使われているのがシソで、さまざまな料理のトッピングとして使われます。シソは常備野菜ではありませんが、いざ買うとなるとわりと値段が張るものです。シソは狭い面積でも十分育つそうですので、夏の薬味としてぜひ育ててみたいと思います。


3月から5月にかけて種まきをしたら、収穫は7月から11月までとかなり長いそうです。少し暗い日陰でもスクスクと伸びるので、野菜作りが初めての人でも育てやすいです。また、薬味のなかでもなじみ深いのがショウガです。4月から5月にかけて植えつけ、7月に入ってからが収穫です。ショウガもシソ同様、11月頃まで収穫できます。すりおろしたり酢漬けにしたり、ショウガの辛みで夏の暑さを吹き飛ばしたいもの。 


辛い食べ物が好きな人は、トウガラシがおすすめです。種まきは3月から5月にかけて、収穫は7月中旬から10月にかけてです。カプサイシンやビタミンCが豊富なので、夏バテ予防にぜひ、料理に加えてみたいと思います。


夏に収穫できる野菜3. 豆類や葉菜類

夏の葉菜類は意外と少ないですが、そのなかでも繁殖力の強いのがバジルです。5月~6月に種をまくと、9月~10月頃まで継続して収穫することができます。バジルを植えるなら、トマト一緒に植えるのがおすすめとのことです。トマトとバジルはコンパニオンプランツの関係にあります。  


コンパニオンプランツとは、お互いが助け合って成長していく関係のこと。料理の相性もバッチリなうえに育ちも良くなるので、トマトとバジルが好きな人はぜひ試してみていただきたいものです。

夏といえばビールに枝豆が定番です。枝豆の旬は夏。おつまみによく枝豆を食べる人は、栽培にチャレンジしてみましょう。種まきは4月中旬から6月初旬にかけて、収穫は7月から8月のあいだです。枝豆は土壌の質を問わず育ち、肥料もさほど必要ありません。枝豆の根には根粒菌という菌がついており、地中のチッソを吸い上げる役割をしています。肥料を与えすぎるとうまく育たないので注意が必要です。








  • 2022年5月31日
  • 読了時間: 4分


嘉祥菓子   和菓子の起源と楽しみ方


                                今江 美和⼦ 六⽉⼗六⽇は「和菓⼦の⽇」

かつて和菓⼦が主役をつとめていた⾏事が 6 ⽉ 16⽇にありました。

その名前を嘉祥 (かじょう) といい、起源は平安時代に遡 (さかのぼ) ると

もいわれますが、はっきりしておりません。

室町時代の朝廷では饅頭などが贈答されていました。

また武家の間では、この⽇に楊⼸ (ようきゅう) という短い⼸⽮で的を射て、

負けた者が勝者に中国の銭「嘉定通宝」 (かじょうつうほう) 16 枚で買った

⾷べ物を贈りました。銭の「嘉」と「通」の字を読んだ⾳が、勝に通じることから

武家に尊ばれました。このようなことから嘉祥は嘉定とも書きます。 慶⻑ 8 年 (1603) 、征夷⼤将軍となって江⼾幕府を開いた徳川家康は、戦国時代を

終わらせ、戦争のない平和で安定した社会の礎を築きました。

幕府を開く以前の元⻲ 3 年 (1572) 、家康に最⼤の危機が訪れます。


甲斐 (現在の⼭梨県) の武⽥信⽞が上洛の軍をおこしたのです。 家康は、三⽅ケ原 (浜松市の⻄⽅) において信⽞の軍勢を迎え撃ちました。

結果として⼤敗を喫したのですが、半分にも満たない軍勢で、同盟者織⽥信長の

ために戦いを挑んだ家康の律儀、勇敢さは賞賛されます。徳川家にとって三⽅ケ原の戦いは、記念すべき⼤敗した合戦でした。  「嘉定私記」によれば、三⽅ケ原の戦いの前、⽻⼊⼋幡にて戦勝を祈願した 家康は、

裏に「⼗六」と鋳付けられた嘉定通宝を拾って縁起をかつぎ、家⾂の⼤久保藤五郎

(おおくぼとうごろう) は⼿製の菓⼦を献上したといいます。

この故事にちなんで嘉祥は、江⼾幕府でも盛⼤に⾏われました。

江⼾城⼤広間 500畳に 2 万個をこえる⽺羹や饅頭などの菓⼦が並べられ、

将軍から⼤名・旗本へ与えられます。もっとも将軍が⼿ずから菓⼦を与えるのは

最初だけで、以後は途中で奥へ退出してしまい、⼤名・旗本は⾃ら菓⼦を取りました。

 ⼆代将軍 秀忠 (ひでただ) までは、将軍 ⾃ら菓⼦を与えたので数⽇、肩が痛かったとのことです。ちなみに家康に菓⼦を献上した⼤久保藤五郎は、後に主⽔(もんと)を名乗り、

幕府の御⽤菓⼦屋となり嘉祥に深く関わっています。 


 明治以後、嘉祥の儀式は廃 (すた) れてしまいました。

 昭和 54 年 (1979) 、全国和菓⼦協会では嘉祥の⾏われた 6⽉ 16⽇を和菓の⽇と定め、

さまざまな⾏事を⾏っています。  また、⻁屋では幕末頃に御所へお納めした七種類の嘉祥菓⼦をはじめ、

嘉祥饅頭や嘉祥蒸⽺羹を販売しています。  これは、江⼾時代に盛んになった⾏事「嘉祥(かじょう、嘉定とも)」にちなんだもの。その⽇は和菓⼦を⾷べて厄除け招福を願うとか。 「和菓⼦で厄除け」と聞くと以外に思えますが、実は元々、ひな祭りや端午の節句と同じ用に親しまれてきたものとか。  毎年、この⽇には、東京・⾚坂にある⽇枝神社で「⼭王嘉祥祭」が⾏われ、東京和菓⼦商⼯業共同組合の技術者が「菓⼦司」として神前にて和菓⼦(煉切)を作り、奉納。 全国各地の和菓⼦屋さんで嘉祥にちなんだお菓⼦を販売しています。 ⼀体、「嘉祥」とは? そしてこの⽇のための和菓⼦にはどんなものがあるのでしょう。

⾷べ物を贈り合う⾵習

 「⻁屋⽂庫」は 1973 年(昭和 48 年)に創設された、⻁屋にあるお菓⼦の資料室です。古くから宮中の御⽤を務めてきた⻁屋に伝わる、歴代の古⽂書や古器物なども収蔵。

⼀般公開はされていませんが、和菓⼦についての様々な疑問にもお答えいただけます。


まずは「和菓⼦の⽇」の由来となった⾏事「嘉祥」について、⽼舗和菓⼦屋の

⻁屋さんに関する資料収集、調査研究を⾏っている、「⻁屋⽂庫」でのお話によると…

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⻁屋⽂庫: 「嘉祥」の起源は諸説あり、はっきりしたことはよくわかっていないのです。

     「嘉祥」とは「めでたいしるし」という意味。

 

     江⼾時代の百科事典「和漢三才図会」によると、「847年(承和 14 年)、

    朝廷に⽩⻲が献上されたことを吉兆とし、仁明天皇が 6 ⽉ 16 ⽇に「嘉祥」と

    改元、「群⾂に⾷物などを贈った」とあります。


    「室町時代、公家では嘉祥の⽇に⾷べ物を贈り合い、武家では楊⼸(ようきゅう)               

    の勝負をし、敗者が勝者に嘉定通宝 16 ⽂で⾷べ物を買ってもてなすという⾵習が

    ありました」


     嘉定通宝とは中国のお⾦で、当時、⽇本でも流通していたもの。

    「嘉(か)」「通(つう)」が勝つに通じることから、公家の間で縁起が良いもの

    として尊ばれていたのだそう。


   「嘉祥」と「嘉定」をかけて、招福を願っていたのかもしれません。


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⼤広間に並ぶ 2 万個のお菓⼦


「嘉祥」の⾵習が盛んになったのは江⼾時代のこと。

宮中では天皇が公家などにお⽶を与え、公家たちはこのお⽶をお菓⼦に替えて

献上していました。


 また、幕府でも盛⼤に⾏われ、多い時には江⼾城の⼤広間に 2万個を超えるお菓⼦が並べられ、将軍から⼤名や旗本に配られていたそうです。






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