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  • 2023年12月29日
  • 読了時間: 7分




『 陰から陽へ、 一陽来復 ‥‥‥ 冬至祭』                           


                            今江 美和子


                                    

冬至点を測る


 冬至とは、天文学では太陽の中心が冬至点(黄道上で春分点から270度離れた点)を通過する現象およびその時刻をいう。現在のグレゴリオ暦では、だいたい12月22日に起こる。一年中で太陽が天の赤道よりも南に離れるために、北半球では太陽の正中高度が最も低くなり、昼間が最も短く夜が最も長い日となる。東京では昼間が9時間25分、夜が14時間35分ぐらいである。

 太陽が天の子午線の上にくることを「正中」(むかしは南中といったが、北の子午線上にくるときも南中というのは不都合なので、現在は正中と呼ぶ)といい、冬至の日に正中高度が最も低いということは、正午における太陽の位置が最も斜めになっているということである。そこで地面に棒を垂直に立てると、冬至の日の正中の太陽の位置が最も斜めになっているということである。そこで地面に棒を垂直に立てると、冬至の日の正中の太陽による棒の影の長さは最も長くなるわけである。

 

 中国ではこの原理を用いて冬至の日を測定した。観測に使う棒を周髀または表といい、周の時代(前1,050〜前256)には周髀の高さを八尺と定めた。


 中国の古い天文書に『周髀算経(しゅうひさんけい)』という書物がある。周公と宰相の商高との対話によって書かれ、次のように記されている。

 「周髀の長さ八尺、冬至のとき日影一丈三尺、夏至のとき日影一尺六寸、髀は股、正影(真昼の日影)は勾」  

          

 このことにより、冬至および夏至のときに影の長さを測ったことが知られる。さらに

 「髀より日の下に至る六万里、而して髀の影なし。此れより以上日に至れば則ち八万里、髀より日に至る一○万里」 

 「矩(定木)を折り、以って勾の広(ながさ)三、股の修(たかさ)四、径(弦)の五を為(つく)る」とある。


 これは、直角三角形の直角をはさむ短い横の辺を「勾(こう)」、長い縦の辺を「股(こ)」斜辺を「弦(げん)」といい、三辺が3、4、5 となる直角三角形の直角の事を述べたものである。その相似形として、6万里、8万里、10万里の距離を知ったのであろう。


 数学で有名なピタゴラスの定理は「勾股弦(こうこげん)の法」と言われるもので「勾・股をそれぞれ二乗したものの和と、弦を二乗したものとは等しい」というものである。

 日本で最初にピタゴラスの定理を述べたのは、吉田光吉の『塵劫記』(1,627年)であるが、証明を記したのは沢口一之の『古今三方法(ここんさんぽうほう)』(1,670年)である。


長さの「尺」度


 さて、周髀の長さ八尺とあるが、「尺」は曲尺(かねじゃく)の30.3cmではない。

「尺」という字は手を広げてものを測る形の象徴文字であり、手を広げた親指の先から中指の先までの長さをいう。それはちょうど、指十本の幅と同じになる。

 現在「尺」といえば曲尺で、30.3cmをいうが、周の時代には小尺と大尺があり、小尺は婦人の指十本の幅を単位として「咫(し)」といい、大尺は男子の指十本の幅を単位として「尺」といった。咫は現在の18㎝、尺は22.5㎝ほどにあたる、すると八尺は小尺ならば1m44cm、大尺ならば1m80cm、だいたい人の背丈ほどである。


冬至と立春正月


 八尺の周髀の影が最も長くなる日=冬至の日の測定は非常に難しい。冬至の頃の日々の影の長さの変化が小さいからである。したがって古代では冬至が一日か二日誤って決められることもしばしばあったことと思われる。

 冬至の日は太陽が最も斜めに照らす日であり、昼間が最も短いために最も弱い太陽となるわけである。陰極まれば陽萌す原理で冬至のとき最も弱い太陽は、冬至から後は次第に昼間が多くなって光と熱を増してくる。そこで、冬至は陽が兆す一陽来復の日として、未来への

希望をつなぐ陽とされたのである。

  

 冬至が太陽の復活を意味し、そこから次第に日照時間が多くなっていくことは確かであるが、しかし「冬至冬中冬初め」といわれているように、気候の点からいって、暖かさは冬至から復活してくるわけではない。気候からいえば、暖かさの復活点は立春である。

 地球が太陽の熱を受けて吸収し、そのため、あたたまるのに四五日ぐらいかかり、冬至のとき最も少なく受けた熱の効果は立春の頃に現れるので、立春が最も寒いということになる。陰極まれば陽萌す原理で立春で寒さも峠を超え、これ以上は寒くもならず、暖かさが増してくる。立春はいわば暖かさの復活点といえる。そのため、漢の武帝のとき、年の始めを冬至から立春に改めるようになった。この立春正月の思想は日本にも受け入れられ、日本で用いられた太陰太陽暦は持統天皇六(692)年の元嘉暦から仁徳天皇の天保十四(1,843)年の天保暦に至るまで、すべて年始は立春となった。


しかし原理的にいえば、太陽の復活は冬至であるために、暦を作る上で冬至を基点とすることが必要であり、中国では天子は観象授時といって暦を作って人民に授けることが重要な任務だったので、冬至の日に天を祭る厳守な儀式を行ったのである。

 冬至は陰陽が交差する分岐点なので、陰陽の定まるまで静かに待ち、人々は一切の仕事をやめて休憩し、旧年の邪気を払って太陽の復活とともに新しい生活の門出とした。 


冬至の太陽の動きを見る


冬至は夜が最も長く、昼が最も短い日であると述べた。それでは、冬至は日の出が最も遅く、日の入りが最も早い日なのだろうか。

答えは否である。その理由を調べてみたい。

 現在、私たちが一日といっているのは、地球が太陽に対して一回転する時間で、それが24時間であるということを知っている。しかし真の一日は24時間ではなく、それより短いことも長いこともある。最も短いのは9月17日ごろで23時間59分39秒、最も長いのは12月22日ごろで24時間30秒である。 一日がこのように一定していないのは不便なので、一年間の平均をとった一日を平均太陽日といい、それが私たちの日常用いている「一日=24時間」である。


 それでは、なぜ真の一日が一定していないのだろう。

 太陽の通る道=黄道が赤道に対して23・4度傾いているために、太陽の速度が一定であっても、黄道上の太陽が赤道に近い春分や秋分の頃には、真の一日が平均より長くなる。

 次に、地球が太陽を焦点とする楕円軌道を公転しているために、ケプラーの定理(面積速度一定)より明らかなように、地球の公転速度は地球が太陽に近い一月ごろが最も大きく、太陽から遠い七月ごろ最も小さくなる。したがって黄道上の太陽の速度は相対的に一月ご

ろが最大、七月ごろが最小となる。以上の原因を合わせて、真の一日の最も短いのが12月22日ごろとなるのである。

                  

 こうして真の一日と平均太陽日との差が積もり積もって、日の出、日の入り二時間差がで

きる。この真の一日と平均太陽日との日ごとの差を合計したものを「時間差」という。

 さて、冬至は真の一日の日の出は最も遅く、日の入りは最も早いのだが、均時差があるために平均太陽日では冬至の日に日の出が最も遅く、日の入りが最も早くならない。均時差のために日の出が最も遅くなるのは1月6日、日の入りが最も早くなるのは12月6日ごろである。

 同様に、日の出が最も早く、日の入りが最も遅くなるのは夏至の日ではなく、日の出の最も早いのは6月12日、日の入りの最も遅くなるのはと6月30日ごろである。しかし、昼が最も長く、夜が最も短いのが夏至の日であることは正しい。

 要するに、冬至は昼が最も短く、夜が最も長い日であるが、日の出が最も遅く日の入りが最も早い日ではない。

 「冬至から畳の目ほど日が延びる」とは、冬至をすぎると少しずつ日あしが伸びて日の長くなることをいい、「冬至十日は日の座(すわ)り」とは、冬至後の10日間は太陽が座り込んでしまったように日が短く感じられるということである。立春の頃には冬至より47分、日照時間が長くなる。

 また、「冬至10日たてば阿呆でも知る」というのは、冬至から10日も経つと、めっきり日の長くなることがわかるという意味であるが、もう少し深く考えてみると、日の入りの時刻に関係のあることがわかる。


 冬至が日の入りの最も早い日であったとしたら、10日たっても日の入りは1分ぐらいしか遅れないので、前日に比べて日が長くなったことはほとんど感じない程度なのだが、日の入りの最も早いのは12月6日ごろであるから、冬至後10日もすれば日の入りは10分以上遅れてくるので、誰でも日が長くなったことに気がつくという意味である。


【冬至】……11月度の感想

 冬至の日、太陽は日の出、日の入りの頃、最も南に位置し、北半球では一日の長さは最短になるとのこと。ただ視点を変えると、冬至を起点に、昼の長さは復活するかごとく長くなり、再びはじまりを迎える時でもあります。                            

 日本だけでなく世界中では、冬至を復活の日、再生の日、太陽の復活、あるいは誕生の日として、多くの行事、祝う習慣があるとのこと。 

 ものごとは、行く着くところまで行くと一転し、再び始まる、再生するという理を学ぶ機会でもあると思わせられます。             今月も誠に有り難うございました。







  • 2023年12月29日
  • 読了時間: 6分





『 ~千年までと願う子の成長~  七五三 』                           


                            今江 美和子


                                    

霜月十五日は鬼の寝る日


 十一月十五日は七五三である。

子供の健康と成長を祝う行事で、現在も盛んに行われている七五三は、もともとは、

徳川幕府三代将軍 家光の四男 徳松(のちの五代将軍綱吉)の身体が虚弱だったので、

五歳の祝いを慶安三(1650)年十一月十五日に取り行ったのがはじめといわれている。


 十一月十五日という日について考えてみたい。まず、この日がどんな日かを解き明かしていくことにしたい。

 昔の暦にはいろいろな暦法があり、それぞれ吉凶が記されてあったが、その中に「きしく」という暦注がある。「きしく」は「鬼宿日(きしゅくにち)」のことで、鬼宿は二十八宿の二十三番目の宿で「よろずよし、ただし婚礼には忌むべし」という日である。

 江戸時代初期に使われていた暦は唐からもたらされた宣命歴(せんみょうれき)で、宣命暦では月の宿命と朔日の宿名が同じであった。

 宣明暦では、インドの宿曜経にもとづいて、牛宿を除く二十七宿が用いられていた。


角、亢、氏、房、心、尾、箕、斗、(牛)、女、虚、危、室、壁、奎、

婁、胃、昴、畢、觜、参、井、鬼、柳、星、張、翼、軫


 二十七宿は、一日ごとに一つずつ宿がずれるので、下記の表に見るように、月日に対して宿名が一定していた。たとえば、中秋名月八月十五日は、八月一日角宿から十五番目だから婁宿となり、栗名月九月十三日は九月一日氏宿から十三番目なので婁宿となる。そのため、鬼宿は月によって一定の日となる。

  たとえば正月は一日が室宿であるから、そこから十一番にあたる鬼宿は十一日となり、九月は氏宿から始まるので二十日となる。十一月は一日の斗宿から十五番目が鬼宿となるので十五日となる。


 鬼宿は南方を守る霊獣・朱雀の目とされ、鬼宿日は二十七宿の中で最も良い日であるため、二十七宿のうち唯一つ、暦注に「きしく」と記されたのである。大安吉日の元祖といえよう。                                       


宿曜経の“本家”インドでも鬼宿を尊んでいる。


 春四月八日、月は鬼宿に滞在していた。摩耶がルンビニーのアショカ樹園に行き、

その花に手を触れようとしていたとき、釈迦が母の脇腹から生まれた。そのとき蓮華が

花開き、天から甘露が降ってきたという(潅仏会の甘茶は甘露に由来している。) 紀元前四六三年四月八日、釈迦の誕生日のことである。その日が鬼宿であったため、インドでは鬼宿を最善の宿としている。


 古来より田の神は、春には山から降りて田畑を護り、秋には山に帰るという信仰があった。春には稲の生育を神に祈願し、秋には稲の豊穣を感謝する。

 十一月十五日、この日は霜月の祭りである。満月の冴えわたる冷たくすがすがしい日、一年の労働から開放された喜びの日であった。また、徳川時代に徳松のために行われた霜月の祭も鬼宿日である。その上「将軍」という権威が重なって、鬼宿日は祝日とするには最も適した日だったのである。こうして十一月十五日が七五三の日と決められたのである。


 宣命歴は唐の徐昂が編修したもので、日本では聖和天皇の貞観四(八六二)年から渋川春海の貞享歴が採用された貞享元(一六八四)年まで、八二三年間にわたって用いられた。貞享歴以降は、二十八宿を用いて年月日を二八周期で一巡するので、鬼宿日は一定の日にはならないことに注意する必要がある。

  

 「七五三」は、子供の成長の節々に厄災に対する抵抗力をつける、子供の歳祝いである。奇数がめでたい数であり、また体調の変わる年齢でもあるので、七五三として子供に成長を自覚させ、同時に親も過保護の戒めとした。


 「七五三」の祝はめでたいから祝うのでなく、祝うことによってめでたくする信仰である。 

 

 「七つ前は神の子」「七つ未満忌服なし」「悼(とう)(七歳)は罪ありとも刑を加えず」などという言葉があるように、古くは七歳までは社会の一員と認めず、罪も咎められず、喪に服することもなかった。七歳になって氏子入りすると、生存権が認められ、罪も問われ、本葬も行われた。現在、学校教育が七歳から始まるのも同じ原理であろう。


 現在の七五三の日には、なぜお宮参りをするのだろう。子供が成長していく過程で、社会の一員として共同体に立派に参加できるようにと願って神に祈るためである。   

現在の七五三の祝いは、美しく着飾って神社に詣で、千歳飴をぶらさげて帰る程度のものになったが、江戸時代以来の本来の七五三の意味をもう少し考えてみよう。

 

髪置    三歳の男女が前髪をのばす儀式である。生まれて三歳ごろまでは、髪を剃るの  

    が一般の風俗だったので、髪置とは新たに髪型を整えることである。 

    頭頂部の髪を丸く残して結び、周りを剃り落とすのが子供の髪型であった

     髪置きのときには綿帽子と言って白い綿を頭の上にのせ、白髪頭になるまで長生

    きするようにと祈った。このとき白髪綿をかぶせる人を髪置親という。

      三歳になると「紐落とし」といって、着物の付け紐をとり、魂が外に飛び出さ

    ぬようにと付け帯をした。また短い一つ身の着物から長い三つ身の着物に替えるの

    で「三つ身祝い」ともいう。


袴着   五歳の男児が初めて袴をはく儀式である。五歳を「童」というので、童子になる

    祝いである。袴の腰を結ぶ人を袴親といい、名望家がえらばれる。    

     また袴着のとき、子供は冠をつけて基盤の上に乗り四方に向かって神に祈った。

    人生勝負の場として基盤に乗り、どちらを向いても勝つようにとの願いである。

     冠をのせる人は冠親といい、生涯の庇護者であり、保証人ともなる人で、名誉も

    地位もある人がえらばれた。


帯解   七歳の女児が付け帯を解いて大人の帯をしめる儀式である。付け帯をとり八つ口

    をふさいで小袖を着せ、幅の広い帯をする。魂を内にしっかりとどめ、身をもちく

    ずさぬようにとの願いがこめられている。帯を贈るのは親代わりになれるような

    女性で、帯親という。


   髪置親、冠親、帯親など、親以外の者が親という名で子供にかかわることで、とかく

 過保護になりがちな親子関係に冷静な判断が加わることになる。やっと一人歩きするころ   

 の三歳、なんでも自分一人でしたがる五歳、社会に仲間入りする七歳を、数でとらえて祝

 うことによって、自覚とよりよき成長を願う節目が七五三であるといえよう。


千歳飴  七五三で神社に参拝した帰り、子供が引きずるように長い袋を嬉しそうに下げて

    いる。松竹梅や鶴龜をあしらった袋には、紅白の棒飴が入っている。飴のどこを切

    っても金太郎の顔が出てくるものもある。めでたずくめの千歳飴は、宝永の頃

   (1705〜1710年)、江戸浅草で、豊臣残党の一人、平野陣九郎重政が甚右衛 

    門と改名して飴屋となって始めたものといわれている。  

【 感 想 】


 『七五三』と言って思い出すのは、七歳の七五三の時、神社に出かけて帰って来た際に、身に付けていた七五三の小道具一式を道すがら一つ一つ落としてきて、自宅に帰った時には、着ていた衣装だけだったことである。親からは呆れられたが、私も悪気があったわけではなく、どうしようもなかったことを今でも思い出す。


 私には子供がおらず、そのような身支度をする機会もないが、未来を託す子供がいたなら、さぞかし、楽しかったであろうと思う。

 七五三のレポートをまとめて思うことは、親でいるのは大変だろうが、子供にしてあげられる事を思えば、かけがえのない事のように思う。


 世界を見渡せば、幸せな子供ばかりではなく、恵まれない子もいると思うが、どんな子供時代を送ったとしても、自分の力で自分の幸せを掴み取って欲しいと思う。





  


  • 2023年12月29日
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『三元の頭の朝に神迎え ・・・ 元旦と人日』                           


                            今江 美和子


                                    

 元旦とは、そもそも一年のはじまりとして、

正月の満月の夜、年神さまを迎えて旧年の豊作と平穏とを感謝し,

あわせて今年の豊作と平和とを祈念する日であった。


 これは旧暦の正月十五日にあたり、太陰太陽暦(天保暦)を廃止して、

太陽暦(グレゴリオ歴)が採用されて現在に至っているが、昔のしきたりも

また伝承されて、現在一月十五日には、(旧元日とは一致しないし、

また満月かどうかもわからないが)「小正月」として、今もなおお祝い事を

催している地方が多い。


 のちに唐の暦法を採用して、年の始めの日を元旦というようになった。

元は「はじめ」であり、旦は「日の出、朝」の意味である。

「年」「月」「日」のはじめを「三元」といい、三元の日の朝が元旦なのである。



年神を迎えることば


 元旦には年神を迎える。

「とし」(年(ねん))は「稔(とし)」であり、稲穂が実り熟すことを祈りつつ念ずる意から、稲穂が実って一順する期間を「年」と言ったのである。


 年神は作神としての性格が強く、五穀を司る神と考えられている。

一方、陰陽家が歳徳神といって人間の世界に来訪する神霊を年神とした。

年神は元旦に恵方から来るという。


 日本の伝承による御年神は、陰陽道の歳徳神と合体し、さらに祖先の霊が加えられて、年神という新たな霊魂に統一されたと考えられる。年神の霊魂はみずみずしい活力に満ち、生命ある人間に再生産の力を与え、人間を新たな息吹で復活させるのである。旧年の物忌みが明けて、新しい霊魂を迎えるにあたって、その霊魂に対して祝福の言葉を捧げる。

「おめでとうございます」と。


 それは魂を賛美する言葉であり、神への祈りであり、全身全霊で神を迎える

心の叫びといえる。

 

 元旦に交わす「おめでとう」の挨拶は、相手の人間に対して言うのではなく、

新たな歳に迎えられた年神を讃える言葉として交わされるものなのである。

こんな意味を考えながら、「新年おめでとう」と言い交わすとき、また「謹賀新年」

「賀正」などと記すとき、改めて新鮮な気持ちを味わうことができるのではないだろうか。


恵方を詣でる


 元旦には年神を迎える。

その年に年神が宿る方角は縁起の良い方角とされていて、

その方角を「恵方」という。

 恵方は明きの方、兄方、天徳などともいわれ、その方向に向かっていくと、

年神によって福が与えられるという。家の中では「恵方棚」といって恵方に神棚を設け、

年神に農作を祈る。

 今日、初詣が盛んに行われているが、初詣はそもそも「恵方参り」に由来するもので、その年の恵方にあたる神仏に参拝して、来たる年の豊穣と家内安全を祈願するものであった。現在では恵方の感覚がなくなり、単に有名神社に参拝するのが恒例になった。なお、昔は元旦のみに限られていたものが、現在では正月三が日に参拝しても初詣というようになった。


「節供」と「年玉」


 正月には年神を迎える。

年神を迎えるために供え物をして神に安らぎを与え、その代償として年神から新しい魂が分け与えられる。


 神への供物が「節供(せちく)」であり、神から与えられる魂が「お年玉」である。

そもそも節供とは、神の到来する節の日に神に供える供御のことであった。やがて中国の「節」が日本の折り目の観念と結びついて特定の年中行事を意味するようになり、さらに

現在では三月三日の雛祭り、五月五日の端午の祭りをいうようになった。



 節とは神祭りの日をいう。その日はハレ(晴)の日であり、心を豊かにして仕事を休んで神を祭り、一日を安らかに神とともに送る折り目の日である。ハレに対して、ケ(褻)の日は仕事にいそしみ、生産に、育児に励む。ハレの日こそ神に感謝し、神に祈る日であった。

 

 正月が最も重要な節の日であるため、年神に備える料理を「節供料理」というように

なり、縮まって「おせち」となった。


 大晦日の晩は年の夜といって新しい年のはじめであり、家中がこぞって祝いの膳につき、年神に捧げた神供と同じものを神の前で食べる。この神人共食が神への誓いと祈りにつながっていく。神と人とが同じ屋根の下に休み、同じ食膳につくことが新しい活力を生みだす原動力となるのである。


 お年玉とは、年神から与えられる魂である。

人々は神に供御を供えた代わりに年神から魂を与えられ、それを身体の内におさめることによって生きる証としたのである。年玉は年魂であり、年頭にあたって今年精一杯生きる活力を生み出す手形であった。


 神の贈り物、生きる証の活力、新しい魂は鏡餅として象(かたど)られた。

したがって鏡餅は、年神の御神体として正月行事の中心に位置するのである。


本来、年玉を授けるものは年神であった。しかし、年神によって家長に与えられた魂という年玉が親から子へ、あるいは主人から使用人へと与えられるように習慣が変わって行き、現在では金銭や物品として正月に送られるものをお年玉というようになった。


 私たちの祖先が精一杯生きてきた歴史の中でいろいろな習慣がつくられてゆくなかには、心のこもった味わいの深い物が多いのに気がつく。いかにより幸せに生きるべきかという神への切なる願いが至るところに込められていて、それが長いあいだの伝承となって現在のしきたりをつくっているのである。



                

もともとは薬だったお屠蘇


 正月には屠蘇を飲む。

 屠蘇は肉桂、山椒、大黄、白じゅつ、桔梗、細辛、乾姜、防風などを三角の紅のきぬ袋に入れて酒や味醂に浸したものである。屠蘇とは鬼気を屠絶し人魂を蘇生させるということで、一年中の邪気を払って延命長寿を願うために飲む酒である。


雑煮と餅にまつわる話


 正月の食事は雑煮からはじまる。

餅はハレの日の食事であった。年越しの夜に神を迎えて、年神に捧げた神供をともに食べ(相嘗(あいなめ))ることによって、神と人とがよろこびをともにするのである。神に捧げた供御をいただいて、聖なる火で煮炊きして神とともに食事する、それはハレの日の膳であり、直会(なおらい)の膳である。神供の餅を神人共食することによって神の霊をいただくのである。雑煮はその名の示すように、雑多に具を入れて煮込むものであるが、餅のほかに青菜を加えるのが特徴である。「名をあげる」に通ずるからである。

 雑煮を食べるときは、柳の白木で少し太めにつくった柳橋を使う。

 柳は枝が水につかっているので、水の霊気に清められているというわけで、聖木とされている。また「家内喜」にかけてめでたいという。聖なる柳箸によって邪を払い、一年の息災を祝うのである。


三つ肴はお節料理の基本


 正月元旦の膳、年神を迎えて神とともに祝い、神に幸を祈る膳がお節料理である。

「三つ肴」または「祝い肴」といって、この三種でお節料理を代表するものがある。

三は完全を意味して、全体を一つにまとめる働きをしている。

 三つ肴とは、関東では黒豆、数の子、五万米をいい、関西では黒豆、数の子、たたき牛蒡をいう。



縁起のよい組み合わせ


松に鶴

 鶴は一本足で立つので、その姿を想像してギリシャ文字のΦ(ファイ)がつくられ、また鶴が空を行列をつくって飛ぶ様子から、ギリシャ文字Λ(ラムダ)が考えられたといわれる。鶴は端正な姿から神秘的な鳥、吉祥の鳥と考えられ、亀とともに長寿と健康のシンボルとされている。


梅に鶯

 鶯は春告鳥とも言われ、春に先立ってなく姿は、梅の一輪と共にさわやかに明

るい春を告げる。梅に寄るうぐいすは、実は梅にたかる赤だにを食べに来るので、

風流味は全くないが、春にことよせた声と香のとりあわせは見事である。


竹に雀

 まさに一対格好の画である。雀は死ぬまで飛びはねる習性があり、躍動とリズムがあるので竹の成長力とともに人を元気づけてくれる。清楚なとり合わせである。雀は晩秋になると海辺でさわぐので、海に入って蛤になると考えられた。七十二候の中に、「雀入大水為蛤」とある。蛤はその貝が他の貝とは決して合わないことから貞操のしるしと考えられているので、純潔のシンボルである。


鶴と亀

 「鶴は千年、亀は万年」といわれて、鶴や亀が長寿のめでたいしるしと考えられていることについて述べると、それは、インドの古典でヒンドゥー教の聖典といわれるマハーバーラクに記されている物語に由来している。

 アク−パーラーという亀はヒンドゥー教で言う原初の亀で、地球を支えていると考えられていたものである。また亀のナーディージャンガは、アク−パーラとともに湖に住んでいたので、ともに長寿のシンボルとされているのである。


人日の節句

 正月七日は人日(じんじつ)といい、五節句の行事の一つで、七日正月ともいわれる。

六日を六日年越し六日年取りといって、七日を折目として年改まる日と考えた。      





【感想】


『「お年玉」とは、年神から与えられる魂であるという。

年玉は年魂であり、年頭にあたって今年精一杯生きる活力を生み出す手形であった。』とあるが、そう考えると、年の初めに誓いを込めて願うと本当に願いがかたちになるような

気がしてまいります。


今月の盛り物は、新しい年への希望を込めて、 『初夢』を提出させていただきます。 今年一年、誠にありがとうございました。

来る一年もご指導のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。







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